琉球王国交流史・近代沖縄史料デジタルアーカイブ

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資料詳細

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1-33-11 世子尚豊の、冊封使の迎接のため都通事金応元等を遣わす執照(一六三三、二、四)
琉球国中山王世子尚(豊)、王爵を請封し愚忠を効し盛典を昭らかにする事の為にす。
崇禎五年(一六三二)五月二十九日、福建等処承宣布政使司の咨を准くるに前事あり。国に到り、此れを准く。崇禎五年六月初五日、続いて欽差の正使戸科左給事中杜(三策)・欽差の副使行人司司正楊(掄)の咨を准け、称するを蒙るに、艦工竣ると雖も、桅木求め難く、風汛既已に時を逾え、吉期は応に来夏を須つべし。徒らに靡盬の憂を懐くも、克く済るの具の鮮きを奈んせん。茲に官を遣わして迎封せる船の廻るに因り、理として合に移咨し回復すべし。査照して施行せよ、等の因あり。
此れを准け、奉行す、等の因あり。仰ぎ瞻るに、使命の厳重にして大礼の繋関すれば、理として当に重復して奉迎すべし。此の為に旧冬、咨して正議大夫林国用等を差わし前赴して迎接せしむ。今春、照得するに、例として該に備咨して都通事金応元等を遣わし、前赴して迎接せしむべし。合行に給照して以て通行に便ならしむべし。此の為に今、仁字第三十一号半印勘合執照を給し、後に開す員役に付与し、収執して前去せしむ。如し津関の去処の験実に遇わば、即便に放行し、稽遅し違悞して便ならざるを得しむる毋れ。須らく執照に至るべき者なり。
計開
都通事一員 金応元 人伴四名
使者二員 倪士 馬吾良 人伴四名
通事一員 林有材 人伴二名
管船火長・直庫二名 紅有輝 宝実
梢水共に六十四名
右の執照は都通事金応元等に付し、此れに准ぜしむ
崇禎六年(一六三三)二月初四日給す
執照

注(1)咨 〔〇八-〇九〕。
(2)崇禎五年…咨 崇禎五年六月初五日の杜三策の咨は〔〇八-〇八〕であるが、『歴代宝案』にない同日付の楊掄の咨があり、その一部が〔一九-一七〕〔一九-二〇〕に引用されている。ここで「称するを蒙るに」のあと、「…等の因あり」までの間は楊掄の咨の引用である。
(3)馬吾良 不詳。あるいは今帰仁親雲上篤盈か。唐名藺久契、童名思五良、一五九五-一六五九年。那覇藺氏(糸嶺家)二世。崇禎六年二月四日、官舎として金応元らと請封のため渡明した(『家譜(四)』五六一頁)。
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TEL:098-888-3939 / FAX:098-888-3944
MAIL:aa318005@pref.okinawa.lg.jp

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