{{ryu_data.f5}}
資料詳細
- 資料ID.
- {{ryu_data.f32}}
- 資料種別
- {{ryu_data.f5}}
- 資料名
- {{ryu_data.f7}}
- 歴代宝案巻号
- {{ryu_data.f10}}集 {{ryu_data.f11}}巻 {{ryu_data.f12}}号
- 著者等
- {{ryu_data.f30}}
- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
- {{ryu_data.f13}}年 {{ryu_data.f14}}月 {{ryu_data.f15}}日
- 曜日
- {{ryu_data.f16}}
- 差出
- {{ryu_data.f21}}
- 宛先
- {{ryu_data.f22}}
- 文書形式
- {{ryu_data.f26}}
- 書誌情報
- {{ryu_data.f27}}
- 関連サイト情報
- {{item.site}}
- 訂正履歴
- {{ryu_data.f24}}
- 備考
- {{ryu_data.f33}}
テキスト
1-27-12 国王尚貞の、謝恩のため法司王舅毛国珍等を遣わす符文(一六八三、一一、二)
琉球国中山王尚(貞)、謝恩等の事の為にす。
今、特に法司王舅・紫金大夫・使者・都通事等の官の毛国珍・王明佐を遣わし、表本を齎捧して官伴・水梢を率領し、海船一隻に坐駕して土産の金鶴形一対・糸線穿鉄甲一領、鍍金護手護臁各全・鉄盔一頂・金靶鞘腰刀二把・銀靶鞘腰刀二把・黒漆靶鞘鍍金銅結束腰刀二十把・黒漆靶鞘鍍金銅結束鎗一十把・黒漆靶鞘鍍金銅結束衮刀一十把・黒漆洒金馬鞍一坐、轡頭踩蹬前後牽軸各項件全・金彩画屛風二対・金面扇一百把・銀面扇二百把・水墨画扇二百把・土糸綿二百束・蕉布二百匹・紋蕉布一百匹・土苧布一百匹・胡椒五百斤・紅銅五百斤を装載し、京に赴き謝恩せしむ。
拠りて今差去する員役は、並びに文憑無くば誠に所在の官軍の盤阻して便ならざるを恐る。理として合に符文を給発して以て通行に便ならしむべし。此の為に王府、今、義字第三十三号半印勘合符文を給して都通事曾益等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難し遅悞して便ならざるを得しむる毋れ。須らく符文に至るべき者なり。
計開 赴京の
法司王舅一員 毛国珍 人伴二十五名
紫金大夫一員 王明佐 人伴十七名
使者一員 昌威 人伴九名
都通事一員 曾益 人伴八名
在船使者二員 呉輝之 牛秉孝 人伴九名
存留通事一員 蔡応祥 人伴六名
王舅通事一員 李栄生 人伴四名
管船伙長・直庫二名 阮廷章 馬施顧
右の符文は都通事曾益等に付し、此れに准ぜしむ
康煕二十二年(一六八三)十一月初二日給す
符文
注*この進貢について『清実録』康煕二十三年八月丙午の条に記事がある。
(1)王明佐 この謝恩での北京からの帰路、二十三年十月、山東省東昌府で病没した(『家譜(二)』三九〇頁、曾夔の譜)。
(2)阮廷章 一六六三-一七一二年。久米村阮氏(𤘩宮城家)四世(『家譜(二)』一五七頁。当該頁の人名見出しは廷璋とあるが、誤植と思われる)。
琉球国中山王尚(貞)、謝恩等の事の為にす。
今、特に法司王舅・紫金大夫・使者・都通事等の官の毛国珍・王明佐を遣わし、表本を齎捧して官伴・水梢を率領し、海船一隻に坐駕して土産の金鶴形一対・糸線穿鉄甲一領、鍍金護手護臁各全・鉄盔一頂・金靶鞘腰刀二把・銀靶鞘腰刀二把・黒漆靶鞘鍍金銅結束腰刀二十把・黒漆靶鞘鍍金銅結束鎗一十把・黒漆靶鞘鍍金銅結束衮刀一十把・黒漆洒金馬鞍一坐、轡頭踩蹬前後牽軸各項件全・金彩画屛風二対・金面扇一百把・銀面扇二百把・水墨画扇二百把・土糸綿二百束・蕉布二百匹・紋蕉布一百匹・土苧布一百匹・胡椒五百斤・紅銅五百斤を装載し、京に赴き謝恩せしむ。
拠りて今差去する員役は、並びに文憑無くば誠に所在の官軍の盤阻して便ならざるを恐る。理として合に符文を給発して以て通行に便ならしむべし。此の為に王府、今、義字第三十三号半印勘合符文を給して都通事曾益等に付し、収執して前去せしむ。如し経過の関津及び沿海巡哨の官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難し遅悞して便ならざるを得しむる毋れ。須らく符文に至るべき者なり。
計開 赴京の
法司王舅一員 毛国珍 人伴二十五名
紫金大夫一員 王明佐 人伴十七名
使者一員 昌威 人伴九名
都通事一員 曾益 人伴八名
在船使者二員 呉輝之 牛秉孝 人伴九名
存留通事一員 蔡応祥 人伴六名
王舅通事一員 李栄生 人伴四名
管船伙長・直庫二名 阮廷章 馬施顧
右の符文は都通事曾益等に付し、此れに准ぜしむ
康煕二十二年(一六八三)十一月初二日給す
符文
注*この進貢について『清実録』康煕二十三年八月丙午の条に記事がある。
(1)王明佐 この謝恩での北京からの帰路、二十三年十月、山東省東昌府で病没した(『家譜(二)』三九〇頁、曾夔の譜)。
(2)阮廷章 一六六三-一七一二年。久米村阮氏(𤘩宮城家)四世(『家譜(二)』一五七頁。当該頁の人名見出しは廷璋とあるが、誤植と思われる)。