琉球王国交流史・近代沖縄史料デジタルアーカイブ

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資料詳細

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1-25-32 世子尚元の、進貢謝恩のため正議大夫蔡廷会等を遣わす符文(一五五九、九、二五)
琉球国中山王世子尚元、進貢、謝恩等の事の為にす。
今、特に正議大夫蔡廷会・使者馬良詮等を遣わし、表文一通を齎捧せしむ。本国の小船一隻に坐駕し、馬二匹・生硫黄五千斤、及び護送の通事梁燦等の船内に馬二匹・生硫黄五千斤、共に生硫黄一万斤・馬四匹・鍍金銅結束線紮靶紅漆鞘腰刀六把・鍍金銅結束紅漆靶鞘衮刀六把・束香一百斤・蘇木一千斤・象牙十一条共に重さ一百七十斤を装載し、京に赴き進貢し謝恩し、仍お礼部に赴き告稟して進収せしむる外、茲の諭遣を承くれば、途に在りて遅滞して便ならざるを得しむる毋れ。所有の符文は須らく出給に至るべき者なり。
今開す 赴京の
正議大夫一員 蔡廷会
使者一員 馬良詮
都通事一員 梁灼 人伴十八名
存留在船使者一員 嘉満度
存留在船通事一員 鄭寀 人伴四名
国王世子附搭の蘇木二千斤
嘉靖三十八年(一五五九)九月二十五日
右の符文は正議大夫蔡廷会・都通事梁灼等に付し、此れに准ぜしむ
進貢謝恩等の/事の為にす 符文

注(1)蔡廷会 この時福建に着いて、冊封使郭汝霖・李際春が福建に滞留していることを知り、倭寇の猖獗を極める折柄、冊封使に危険の及ぶことを恐れ、遣使を煩わさず蔡廷会自身がさきの迎接使梁炫らと共に詔勅を持ち帰ることを申し出た。福建巡按御史がこれを上奏し、皇帝は礼部に検討させた。礼部は五つの理由をあげて反対したが、その一つは蔡廷会が尚元の直接の命を受けておらず、印信や文書もなく、尚元の意志とは確認しがたいというものであった。そして受封の前に謝恩するのは旧典にないとして、方物のみを貢させ、謝恩の表文は受封の後に上進させるよう建言して許可された(『明実録』嘉靖三十九年三月甲戌の条)。
なお、嘉靖三十二年から数年は嘉靖大倭寇と呼ばれ、倭寇の特に激しかった時期である。この時期の福建の倭寇については鄭樑生『明・日関係史の研究』(雄山閣出版、一九八五年)三八八-四一八頁、付図13を参照。郭汝霖『使琉球録』にも、三十八年には数万の倭寇のために三月余にわたって福州城門を閉じたこと、三十七年の冬冊封使を迎接に来た梁炫らの滞在した柔遠駅が倭寇に掠奪されたことなどが記されている。
(2)馬良詮 大浦添親方良憲。?-一五六六年。首里馬氏(小禄家)元祖。三司官に任ず(『家譜(三)』五一七頁)。
(3)梁燦 生没年不詳。久米村呉江梁氏(亀嶋家)。渡明七回。官は正議大夫に至る(『家譜(二)』七五九頁)。
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