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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
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- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
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- 西暦
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- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
1-04-09 礼部より国王尚豊あて、貢期を三年二貢に復し、船一隻の増加等の許可を知らせる咨(一六三四、一一、二八)
礼部、藩臣、政を嗣ぎて恭しく聖恩に謝し、旧典に欽遵して貢職を修めて以て忠忱を竭す事の為にす。
該本部題す。主客清吏司の案呈は、本部の送れる礼科の抄出を奉ずるものなり。琉球国中山王尚豊、前事を奏するの内に称すらく、欽差の正使戸科左給事中杜三策・副使行人司司正楊掄、詔勅を齎捧し、臣を封じて中山王と為し、臣に欽賜の冠服等の項を、并びに臣の妃に綵幣等の物を授くるを荷蒙す。臣、百官を率いて北向し、叩頭して謝恩するの外、窃かに惟うに、臣は遠く海東に処りて荒島に僻居するも、一統の正朔を奉じ、累朝の深恩を荷くす。遡れば太祖高皇帝より以て今日に至るまで、実に威霊に憑藉して此の一方を保てり。茲に蓋し伏して皇帝陛下の湛恩もて海外を遺てず、爰に五等の封を班ち、愷沢普く遐陬に施すに遇う。臣、三錫の賜を荷くし、臣即ち頂踵を捐糜するも、以て大君に補報し難しと為す。計るに惟だ貢職もて勤修して差先祖を継述す可きのみ。伏して覩るに、太祖高皇帝の旧典に、臣の国の三年両貢を欽定す。臣の先世の貢献の程式を稽うるに、方物は加うる有り。天啓三年(一六二三)に至り、旨を奉ずるに、矜恤し培植して暫く貢期を寛め、冊封の後を俟ちて定奪す、とあり。伏して思うに、臣の国の来享は最も久しく、恩を受くるは最も深し。即ち三年両貢は猶お忠款の忱を少しく罄すに足らず。而るを況んや五年は伊遠し。豈に此の源来の嚮慕の念を悉すを得んや。区区たる愚忠もて冒昧を揣らず、陳請して懇乞すらくは、皇上、蟻誠を俯念して芹献を棄てず、旧制に准依して三年両貢の常期に復し、臣をして先代の増加の定例に循わしめんことを。小国の恭順は祖孫に替わらず、聖朝の恩波は長く世世を沐すに庶からん、等の因あり。具奏して崇禎七年(一六三四)十月初四日、聖旨を奉ずるに、王の奏謝を覧たり。知道了。請う所の貢期は、該部看議して具奏せよ、とあり。此れを欽む。欽遵して抄出し、部に到る。
随いで福建等処承宣布政使司の咨呈を准く。琉球国中山王尚豊の咨を准くるに称すらく、第だ窮陬の土産は惟だ馬匹・硫黄有るのみ。区区たるをも揣らず、謹んで邇の年の常貢の外に、旧制に遵依して馬六匹を増して共に十匹と成し、硫黄は一万斤を増して共に二万斤と成し、螺殻は三千個とす。是れ豊の祖先世代の定制にして、微か芹曝の愚忠を効す者なり。但だ計るに、貢物・人馬は頗る重し。一船に装載すれば恐らくは波濤を遠渉し難し。須らく分かちて両つと為すべし。不測の虞を免れ、乃ち以て駕運して進献するを得るに庶からん。其の原擬するの貢期に於ては、聖旨を荷蒙するに、冊封の後、奏請すれば定奪するを准す。伏して乞う、具題して祖制に仍り遵いて三年両貢せしめんことを、等の因あり。部に到れば司に送る。案呈して部に到る。
該臣等看得するに、貢期は原より定限有り。該国の三年両次の朝貢は載して会典に在りて甚だ明らかなり。天啓三年(一六二三)、臣の部の題請を経て、欽依もて其れ五年一次と定むるは、原より該国の曾て倭難に遭うに因り、故に暫く貢期を展べて、以て体恤を示す。然れば当に冊封の後、奏請すれば定奪す、との旨を奉有したるべし。今冊封の典、既に頒てば、則ち朝貢の期は宜しく復すべし。且つ該国は素より忠順を称し、今茲の請は情詞懇切なり。当に其の嚮化を嘉して三年の制に仍り従うべき者に似たるなり。若し生息未だ久しからざるを以て、再た与うるに期を寛むるを以てするも、此れ又、聖明の特恩に係わり、臣等の敢えて議する所に非ず。常貢の外に馬六匹・硫黄万斤・螺殻三千を増さんと欲するに至りては、義を慕うこと嘉す可く、相応に俯従すべし。但だ船一隻を増すに、須らく用うべき駕船の人は、該国自ら当に斟酌して量加するも、会典に載する所の毎船に百人を過ぐるを得ざるの数に遵照し、用いて以て恭順を昭らかにし、恪謹を表すべきなり、等の因あり。崇禎七年(一六三四)十一月十七日、太子少保本部尚書兼翰林院学士加俸一級李(康先)等具題し、十九日聖旨を奉ずるに、海藩、貢期を復し方物を加進するを請う。情詞は真に懇なり。議に依りて允従し、其れ一船を量増するも、水手の数は百に盈たざらしめ、併せて諭して、遵行して以て恪順を昭らかにせしめよ、とあり。此れを欽む。欽遵して抄出し、案呈して部に到る。擬するに合に就ち行うべし。此の為に、合に貴国に咨すべし。欽依内の事理に依奉し、会典に遵照して三年両次に朝貢し、其れ方物を加進し一船を量増するも、水手の数は百に盈たざらしめ、欽遵し恪順して施行せよ。須らく咨に至るべき者なり。
右、琉球国王に咨す
崇禎七年(一六三四)十一月二十八日 対同せる都吏 薛大勲
再対して之を正す
藩臣、政を嗣ぐ等の事
注(1)尚豊…奏する 尚豊の奏は「欽差の」より注(15)まで。
(2)一統の正朔を奉じ 正朔は暦。皇帝が暦を頒布して天下を統一したことから、皇帝の臣民となる意。
(3)憑藉 よる、たよる。
(4)五等 爵の五階級。公侯伯子男。
(5)遐陬 遠方の土地。辺地。
(6)三錫 古代、君主に仕える者は一命で爵を、再命で衣服を、三命で位と車馬を賜わった。ここでは、琉球国王に冊封されること。
(7)頂踵を捐糜す 頂踵は頭と足。捐はすてる、糜はほろぼす。全身をなげうつの意か。
(8)三年両貢 三年二貢に同じ。琉球の貢期に関して現存の大明会典には「祖訓、大琉球国朝貢不時。…中山王世称尚氏、諭令二年一貢。」と記すのみである(『正徳会典』巻九七、『万暦会典』巻一〇五)。また〔一九-〇一〕(崇禎三年)の礼部咨の引用に「琉球国向係二年一貢、会典開載甚明。」とあり、また〔一九-二三〕(崇禎八年)にも三年両貢は会典に合わず、との言があって、当時も明会典に三年二(両)貢の文字はなかったと考えられる。実態として琉球の朝貢は、その初期には不定期であったが、やがて一年一貢が常態となり、成化十一年(一四七五)以降は二年一貢が定制である(正徳年間〈一五〇七-二一〉のみは一年一貢が許された。『明実録』正徳二年三月丙辰の条・嘉靖元年五月戊午の条参照)。現存の文書で三年二貢とある最も早い例は万暦二十二年の世子尚寧の咨(〔〇七-〇二〕参照)であり、琉球が三年二貢を常例と称するようになったのはあるいはこの頃からか。『明実録』では入貢年次が明確でないが『歴代宝案』の入貢の記録から、嘉靖以降は二年一貢がほぼ順守されていたことが明らかで、また本文書の三年二貢の許可より以後も二年一貢であることから(「年時順目録」参照)、三年二貢は事実上二年一貢と同じ制度を指すと思われる。本文書の後で、礼部が「該国三年両次朝貢、載在会典甚明」と述べているのは、この事情を礼部が承知して言ったのであろうか。
(9)程式 規程。
(10)矜恤 あわれみめぐむ。
(11)培植 つちかう。
(12)来享 諸侯が来朝して物を献ずる。
(13)冒昧 無礼な。
(14)芹献 人にものを贈るときの謙辞。粗末なものとの意。
(15)等の因あり 注(1)の尚豊の奏の終り。
(16)覧たり (上奏文に)目を通した、の意。一字のみを単純に用いることが多い。皇帝の批示(指令)の慣用句。
(17)知道了 報告のおもむき承知した、の意。皇帝が上奏文を閲覧してその内容を了知したことを表わす批示(指令)の慣用句。「用語解説」参照。
(18)看議 協議しかんがえること。
(19)咨呈 (形式上は対等であるが、実質上は敬意を表すべき格式の官庁に対して)通報する(『外交辞典』)。引用は「琉球国」より注(24)まで。
(20)尚豊の咨 「第だ窮陬の」より注(24)まで。
(21)窮陬 遐陬に同じ。辺地、片いなか。
(22)螺殻 夜光貝の殻。古くから螺鈿細工に用いた。夜光貝はリュウテンサザエ科の大形の巻貝で、奄美諸島以南から太平洋熱帯域・インド洋に分布する。明末・清初の時期の琉球より中国への進貢品としての螺殻について、宮田俊彦「琉球の方物の一つ『螺殻』に就いて」(『海事史研究』二〇号、昭和四十八年)がある。
(23)芹曝 野人(いなかもの)の微衷。
(24)等の因あり 注(19)の福建布政司の咨呈と注(20)の尚豊の咨の終り。
(25)天啓三年…定む 『明実録』同年三月丁巳の条に記事がある。
(26)聖明 (聖人・天子が)非常に知徳に秀れていること。天子のこと。
(27)万斤 一万斤に同じ。
(28)会典に…数 『万暦会典』巻一〇五、琉球国の条には「毎船百人、多不過五十人」とある。
(29)加俸一級 官吏の品階は九品十八級(一品を正従の二級にわける)。加俸は官吏の功績による優待の制度で、加俸一級は本来の品階より従一品上の俸禄を支給すること(『万暦会典』巻一二、吏部一一、巻三九、戸部二六)。
(30)李(康先) 崇禎六年五月より八年正月まで礼部尚書在任(『明史』巻一一二、表)。
(31)允従 承諾してその通りにする。
(32)擬するに合に就ち行うべし 擬は予定する、…するつもりである。全体で、当然、即時に実行する予定であります、との意。「用語解説」参照。
礼部、藩臣、政を嗣ぎて恭しく聖恩に謝し、旧典に欽遵して貢職を修めて以て忠忱を竭す事の為にす。
該本部題す。主客清吏司の案呈は、本部の送れる礼科の抄出を奉ずるものなり。琉球国中山王尚豊、前事を奏するの内に称すらく、欽差の正使戸科左給事中杜三策・副使行人司司正楊掄、詔勅を齎捧し、臣を封じて中山王と為し、臣に欽賜の冠服等の項を、并びに臣の妃に綵幣等の物を授くるを荷蒙す。臣、百官を率いて北向し、叩頭して謝恩するの外、窃かに惟うに、臣は遠く海東に処りて荒島に僻居するも、一統の正朔を奉じ、累朝の深恩を荷くす。遡れば太祖高皇帝より以て今日に至るまで、実に威霊に憑藉して此の一方を保てり。茲に蓋し伏して皇帝陛下の湛恩もて海外を遺てず、爰に五等の封を班ち、愷沢普く遐陬に施すに遇う。臣、三錫の賜を荷くし、臣即ち頂踵を捐糜するも、以て大君に補報し難しと為す。計るに惟だ貢職もて勤修して差先祖を継述す可きのみ。伏して覩るに、太祖高皇帝の旧典に、臣の国の三年両貢を欽定す。臣の先世の貢献の程式を稽うるに、方物は加うる有り。天啓三年(一六二三)に至り、旨を奉ずるに、矜恤し培植して暫く貢期を寛め、冊封の後を俟ちて定奪す、とあり。伏して思うに、臣の国の来享は最も久しく、恩を受くるは最も深し。即ち三年両貢は猶お忠款の忱を少しく罄すに足らず。而るを況んや五年は伊遠し。豈に此の源来の嚮慕の念を悉すを得んや。区区たる愚忠もて冒昧を揣らず、陳請して懇乞すらくは、皇上、蟻誠を俯念して芹献を棄てず、旧制に准依して三年両貢の常期に復し、臣をして先代の増加の定例に循わしめんことを。小国の恭順は祖孫に替わらず、聖朝の恩波は長く世世を沐すに庶からん、等の因あり。具奏して崇禎七年(一六三四)十月初四日、聖旨を奉ずるに、王の奏謝を覧たり。知道了。請う所の貢期は、該部看議して具奏せよ、とあり。此れを欽む。欽遵して抄出し、部に到る。
随いで福建等処承宣布政使司の咨呈を准く。琉球国中山王尚豊の咨を准くるに称すらく、第だ窮陬の土産は惟だ馬匹・硫黄有るのみ。区区たるをも揣らず、謹んで邇の年の常貢の外に、旧制に遵依して馬六匹を増して共に十匹と成し、硫黄は一万斤を増して共に二万斤と成し、螺殻は三千個とす。是れ豊の祖先世代の定制にして、微か芹曝の愚忠を効す者なり。但だ計るに、貢物・人馬は頗る重し。一船に装載すれば恐らくは波濤を遠渉し難し。須らく分かちて両つと為すべし。不測の虞を免れ、乃ち以て駕運して進献するを得るに庶からん。其の原擬するの貢期に於ては、聖旨を荷蒙するに、冊封の後、奏請すれば定奪するを准す。伏して乞う、具題して祖制に仍り遵いて三年両貢せしめんことを、等の因あり。部に到れば司に送る。案呈して部に到る。
該臣等看得するに、貢期は原より定限有り。該国の三年両次の朝貢は載して会典に在りて甚だ明らかなり。天啓三年(一六二三)、臣の部の題請を経て、欽依もて其れ五年一次と定むるは、原より該国の曾て倭難に遭うに因り、故に暫く貢期を展べて、以て体恤を示す。然れば当に冊封の後、奏請すれば定奪す、との旨を奉有したるべし。今冊封の典、既に頒てば、則ち朝貢の期は宜しく復すべし。且つ該国は素より忠順を称し、今茲の請は情詞懇切なり。当に其の嚮化を嘉して三年の制に仍り従うべき者に似たるなり。若し生息未だ久しからざるを以て、再た与うるに期を寛むるを以てするも、此れ又、聖明の特恩に係わり、臣等の敢えて議する所に非ず。常貢の外に馬六匹・硫黄万斤・螺殻三千を増さんと欲するに至りては、義を慕うこと嘉す可く、相応に俯従すべし。但だ船一隻を増すに、須らく用うべき駕船の人は、該国自ら当に斟酌して量加するも、会典に載する所の毎船に百人を過ぐるを得ざるの数に遵照し、用いて以て恭順を昭らかにし、恪謹を表すべきなり、等の因あり。崇禎七年(一六三四)十一月十七日、太子少保本部尚書兼翰林院学士加俸一級李(康先)等具題し、十九日聖旨を奉ずるに、海藩、貢期を復し方物を加進するを請う。情詞は真に懇なり。議に依りて允従し、其れ一船を量増するも、水手の数は百に盈たざらしめ、併せて諭して、遵行して以て恪順を昭らかにせしめよ、とあり。此れを欽む。欽遵して抄出し、案呈して部に到る。擬するに合に就ち行うべし。此の為に、合に貴国に咨すべし。欽依内の事理に依奉し、会典に遵照して三年両次に朝貢し、其れ方物を加進し一船を量増するも、水手の数は百に盈たざらしめ、欽遵し恪順して施行せよ。須らく咨に至るべき者なり。
右、琉球国王に咨す
崇禎七年(一六三四)十一月二十八日 対同せる都吏 薛大勲
再対して之を正す
藩臣、政を嗣ぐ等の事
注(1)尚豊…奏する 尚豊の奏は「欽差の」より注(15)まで。
(2)一統の正朔を奉じ 正朔は暦。皇帝が暦を頒布して天下を統一したことから、皇帝の臣民となる意。
(3)憑藉 よる、たよる。
(4)五等 爵の五階級。公侯伯子男。
(5)遐陬 遠方の土地。辺地。
(6)三錫 古代、君主に仕える者は一命で爵を、再命で衣服を、三命で位と車馬を賜わった。ここでは、琉球国王に冊封されること。
(7)頂踵を捐糜す 頂踵は頭と足。捐はすてる、糜はほろぼす。全身をなげうつの意か。
(8)三年両貢 三年二貢に同じ。琉球の貢期に関して現存の大明会典には「祖訓、大琉球国朝貢不時。…中山王世称尚氏、諭令二年一貢。」と記すのみである(『正徳会典』巻九七、『万暦会典』巻一〇五)。また〔一九-〇一〕(崇禎三年)の礼部咨の引用に「琉球国向係二年一貢、会典開載甚明。」とあり、また〔一九-二三〕(崇禎八年)にも三年両貢は会典に合わず、との言があって、当時も明会典に三年二(両)貢の文字はなかったと考えられる。実態として琉球の朝貢は、その初期には不定期であったが、やがて一年一貢が常態となり、成化十一年(一四七五)以降は二年一貢が定制である(正徳年間〈一五〇七-二一〉のみは一年一貢が許された。『明実録』正徳二年三月丙辰の条・嘉靖元年五月戊午の条参照)。現存の文書で三年二貢とある最も早い例は万暦二十二年の世子尚寧の咨(〔〇七-〇二〕参照)であり、琉球が三年二貢を常例と称するようになったのはあるいはこの頃からか。『明実録』では入貢年次が明確でないが『歴代宝案』の入貢の記録から、嘉靖以降は二年一貢がほぼ順守されていたことが明らかで、また本文書の三年二貢の許可より以後も二年一貢であることから(「年時順目録」参照)、三年二貢は事実上二年一貢と同じ制度を指すと思われる。本文書の後で、礼部が「該国三年両次朝貢、載在会典甚明」と述べているのは、この事情を礼部が承知して言ったのであろうか。
(9)程式 規程。
(10)矜恤 あわれみめぐむ。
(11)培植 つちかう。
(12)来享 諸侯が来朝して物を献ずる。
(13)冒昧 無礼な。
(14)芹献 人にものを贈るときの謙辞。粗末なものとの意。
(15)等の因あり 注(1)の尚豊の奏の終り。
(16)覧たり (上奏文に)目を通した、の意。一字のみを単純に用いることが多い。皇帝の批示(指令)の慣用句。
(17)知道了 報告のおもむき承知した、の意。皇帝が上奏文を閲覧してその内容を了知したことを表わす批示(指令)の慣用句。「用語解説」参照。
(18)看議 協議しかんがえること。
(19)咨呈 (形式上は対等であるが、実質上は敬意を表すべき格式の官庁に対して)通報する(『外交辞典』)。引用は「琉球国」より注(24)まで。
(20)尚豊の咨 「第だ窮陬の」より注(24)まで。
(21)窮陬 遐陬に同じ。辺地、片いなか。
(22)螺殻 夜光貝の殻。古くから螺鈿細工に用いた。夜光貝はリュウテンサザエ科の大形の巻貝で、奄美諸島以南から太平洋熱帯域・インド洋に分布する。明末・清初の時期の琉球より中国への進貢品としての螺殻について、宮田俊彦「琉球の方物の一つ『螺殻』に就いて」(『海事史研究』二〇号、昭和四十八年)がある。
(23)芹曝 野人(いなかもの)の微衷。
(24)等の因あり 注(19)の福建布政司の咨呈と注(20)の尚豊の咨の終り。
(25)天啓三年…定む 『明実録』同年三月丁巳の条に記事がある。
(26)聖明 (聖人・天子が)非常に知徳に秀れていること。天子のこと。
(27)万斤 一万斤に同じ。
(28)会典に…数 『万暦会典』巻一〇五、琉球国の条には「毎船百人、多不過五十人」とある。
(29)加俸一級 官吏の品階は九品十八級(一品を正従の二級にわける)。加俸は官吏の功績による優待の制度で、加俸一級は本来の品階より従一品上の俸禄を支給すること(『万暦会典』巻一二、吏部一一、巻三九、戸部二六)。
(30)李(康先) 崇禎六年五月より八年正月まで礼部尚書在任(『明史』巻一一二、表)。
(31)允従 承諾してその通りにする。
(32)擬するに合に就ち行うべし 擬は予定する、…するつもりである。全体で、当然、即時に実行する予定であります、との意。「用語解説」参照。