もっと知りたい近代沖縄 沖縄近代気象の普及-筒井百平の果した役割
気象予測の重要性は言うまでもありませんが、王府時代はもちろん、その後の明治・大正期でも沖縄では木造の小型船や粗末な建物がほとんどであり、また地域の農漁業が日々の食糧事情に直接影響し、住民にとって気象予測の重要性はより高かったと考えられます。戦前沖縄の気象観測データは現在も気象庁で閲覧することが可能ですが、そうした資料からは気象と生活の関わりは見えてきません。新聞資料は速報性重視で精査されない使い捨ての断片的情報であると言う欠点もありますが、それ以外になければそれに頼るしかなく、逆に生の情報であるため、紙面からその時代の生活が伺えると言う側面もあります。
ここでは明治・大正期の沖縄の新聞から当時の人と気象の関わり、近代的気象予測普及の様子とそれに関わった那覇測候所初代専任所長・筒井百平(1885-1940)についてまとめます。本文中引用の新聞記事には(紙名,年月日/紙面)を付しています。
明治23(1890)年に那覇測候所が設置され中央気象台発表の天気予報や警報が、明治33年8月からは那覇測候所発表の予報が原則毎日の新聞に掲載されるようになります(沖縄気象台,1990)。しかし、住民の多くは代々受継いできた経験則にもとづく伝統的気象予測に頼っており(石島ほか,2015)、明治32年の暴風警報を伝える新聞記事は「中央気象台の暴風警報は久米島堂親方(堂之比屋)占記と甚しき相違なきを見るべし」と締めくくられ、伝統的気象予測の方が主体となっています(琉球新報,1899.03.02/2)。なお堂之比屋(1450-1520)は、琉球の伝統的気象予測の祖とされる人物です。
天候の読み違いは時に大きな被害につながりますが、特に当時の漁業は、小型船で村単位に船団を組み出漁する形態であったため、予想外の悪天候は生死に関わりました。明治35(1902)年8月、台湾東方海上に低気圧が発生し中央気象台が8月28日付けで「陸海警戒」を呼びかけ、9月1日新聞紙面でもそれに触れてはいますが、扱いは非常に小さいです(琉球新報,1902.09.01/3)。
翌9月2日、沖縄島中南部の漁村から複数の船団が烏賊漁に出漁してしまい、低気圧の北上にともなう悪天候で数百隻が遭難します(琉球新報,1902.09.05/2)。最終的な遭難隻数や人的被害は明らかではありませんが、遭難事故から1年後の明治36年9月16日付けで玉城間切奥武村住民37人の失踪宣告(紙面は失跡宣告)がまとめて行われています(琉球新報,1903.09.25/4)。この記事は状況から前年9月の遭難事故による犠牲者と判断でき、他地域も含めて考えると大変な犠牲者数であったと推定されます。
現在の感覚だと事故ではなくもはや事件となるはずですが、警報の周知体制や漁船団出航の是非など事故の原因究明や防止策に関する議論は起こらず、一月待たずに紙面から消えてしまいます。近代的気象予測はまったく社会に浸透しておらず、自然に対して受身なこの時代、漁民が悪天候で遭難することはある意味当たり前の「単に不運な出来事」であったと捉えられたようです。
近代的気象予測が浸透しない理由として、初期気象予測の確度もあったと想像します。近代的な「あたる気象予測」は「各測候所で正しく観測」し「中央で集約し日々の天気図を作成」する、その変化から予測を行い「各測候所に還元」する、これを「リアルタイム」で行うことで可能になるからです。
明治30(1897)年5月に日本の有線電信網は先島経由で台湾まで到達します。さらに無線電信の発達を受け、明治43(1910)年5月から逓信省・海軍省・中央気象台で商船・艦艇による洋上観測値を含む気象情報の共有が始まり(琉球新報,1910.05.04/2)、これで観測網のリアルタイム化が実現しました。
この観測網完成に加え、那覇測候所の場合、明治44(1911)年の技手・筒井百平の着任が近代的気象予測へのターニングポイントであったと考えられます(琉球新報,1911.04.15/1)。筒井は後に那覇測候所初代専任所長となりますが、その経歴や人柄、寄稿新聞記事などは仲地・小野(2015)にまとめられています。那覇測候所には筒井着任の前年9月(琉球新報,1910.09.23/1)と着任翌年の11月(琉球新報,1912.11.13/2)に地震計・乾湿計や雲鏡など新型の観測機器が導入され、そうした機器を使いこなせる『測候所初のエキスパート(沖縄日報,1940.09.28/3)』として招聘されたようです。
以後、沖縄でも「あたる気象予測」が行われるようになったと考えられますが、その情報も住民に届かなければ意味がありません。明治44(1911)年8月に首里・与那原の両警察署で予報の掲示が始まり(琉球新報,1911.08.16/2)、掲揚する旗の形と色で予報を知らせる暴風信号標が大正元(1912)年8月に那覇(琉球新報,1912.08.16/2)、12月に糸満(琉球新報,1912.12.10/2)にと設置され、広報周知体制が整えられていく様子が見えます。大正元(1912)年10月には信号標の旗の意味の詳細な解説も掲載されますが、その以前から導入されていた那覇の信号標が施設老朽化とその後の予算不足で運用されていなかった事に触れています(琉球新報,1912.10.21/2)。
これで住民まで予報は届いたわけですが、その予報が実際に住民に受け入れられる事が最も重要です。しかし伝統的気象予測から近代的気象予測への転換、気象に限らず伝統的価値観を否定する新しい価値観には常に抵抗があり、その抵抗を乗越える普及啓蒙活動が必要になります。
明治43(1910)年の琉球新報には、日々の天気予報や警報を除くと記事19件が測候所名で掲載されていますが、すべて無味乾燥な観測値が羅列された過月概況報告で特に解説などはみられません。それが筒井着任翌年の明治45/大正元(1912)年になると記事数51件と大幅に増え、ほぼ全てが気象解説記事で、内44件は筒井によるものです。 予報や警報は明治20年代には既に発表されており遅きに失した感はありますが、明治45(1912) 年4月、「暴風警報に就て」の見出しで、警報の用語とその対処方法についての解説がされています(琉球新報,1912.04.08/2)。記事署名は測候所長・橋本一二となっていますが、橋本は県産業課長兼任で気象の専門家ではなく(具志,1973)、実際には筒井の文章の可能性が高いでしょう。
新しい価値観の導入時に古い価値観の一律全否定を行うとより大きな反発を生んでしまいますが、筒井は伝統的気象予測であっても科学的妥当性が認められるものは否定せず、気象解説に九降風(琉球新報,1916.10.05/2)や二月風廻(琉球新報,1917.03.10/2)など沖縄の伝統的な用語を用いています。結果的に親近感から近代的気象予測へのハードルを下げる効果があったと想像しますが、それが狙いではなく、単に筒井の科学的客観性と公平性を反映しているのではないか と思います。筒井は那覇測候所在任の10年間、所長就任後も寄稿を続け膨大な新聞記事を残していますが、その文章が近代的気象予測の普及啓蒙に果たした役割は大きいといえます(仲地・小野,2015)。
明治・大正期の沖縄で近代的気象予測を可能にし普及させるために、まず必要となる知識経験を有する気象学の専門家として、筒井百平は招聘されました。全国的に気象インフラが整備され、那覇測候所でも近代化の機運が高まり、たまたまそれに立会っただけの人物とする見方もできますが 、引き続く普及啓蒙に筒井が果たした役割は大きく、それは筒井以外ではなしえなかったのではないかと思います。沖縄にとっては残念な事ですが、それが評価された結果が彦根測候所長転任ではないでしょうか。
筒井は1921(大正10)年に滋賀県立彦根測候所長に転任、昭和15(1940)年7月に55歳で生涯を閉じました(沖縄日報,1940.09.28/3)。筒井が沖縄で活躍した時代から100年、現在その名を耳にすることはほとんどありません。しかし、伝統気象の祖・堂の比屋とならび沖縄の近代気象の祖として評価されるべき人物であると思います。
(仲地 明)
引用文献
沖縄県教育庁文化財課史料編集班(2015)沖縄県史各論編1 自然環境.沖縄県教育委員会. 782pp.
沖縄気象台(1990)沖縄気象台百年史.沖縄気象台.334pp.
具志幸孝(1973)琉球の気象史(2).測候時報 40(1): 13-28.
仲地明・小野まさ子(2015)筒井百平-那覇測候所初代専任所長.沖縄史料編集紀要(38): 13-24.
楢原友満(1916)沖縄県人事録.楢原友満.554, 12, 34pp.
琉球電信電話公社(1969)沖縄の電信電話事業史.996pp.