もっと知りたい近代沖縄 沖縄における洗骨の規制と火葬の推進

 現在は人が亡くなると、火葬場で遺体を焼いて白骨化させ、その骨を骨壺に入れて墓に葬ります。かつての奄美諸島や沖縄島及び周辺離島、宮古・八重山地域では、遺体を墓の中などに数年間安置して白骨化させ、その後主に女性の手で、骨を水などで洗い清めてから骨壺に収める、いわゆる洗骨がおこなわれていました。
 この洗骨も、明治中期以降から衛生的に良くない等の理由で新聞記者や行政関係者に、戦後は洗骨を担う女性への精神的な負担が大きいとの理由で女性団体から批判されるようになりました。行政側では洗骨をすぐに否定せず、法律を通して条件付きで認めるものでした。こうした条件付きの洗骨は、初夏の前から秋の暑い時期に遺体を扱うことを避けるためのもので、この期間の洗骨を禁止するものです。

沖縄市園田の洗骨、沖縄市立郷土博物館所蔵写真

 公報などの資料では直接確認できませんが、新聞記事によると1898年(明治31)9月以前に、「夏期洗骨禁止」に関する法律が存在したようです (1898年[明治31]9月7日付「夏期洗骨に関する法規に就いて」『琉球新報』)。直接的な記述として確認できるのは1904年(明治37)4月21日の県令達「墓地及埋葬取締規則施行細則」からで、このなかで洗骨する際は警察署や巡査駐在所、派出所に届け出が必要で、4~10月までの期間中は禁止と決められています(『沖縄縣令達類纂 五 會計・統計・雑・附録』 沖縄県立図書館所蔵 )。この4~10月までの期間というのが、先程の法律が示す夏期のことと思われます。ちなみにこの記事を書かれた筆者は、夏季に洗骨を禁止することに対して、衛生面での効果を疑問視し、この法律を「無用の法規」として批判しています。
 それからは洗骨する時期を守る呼び掛けがなされていて 、1934年(昭和9)4月頃の記事「初夏から秋にかけて 洗骨は法度です うかつに行ふと処罰される」(新聞名不明『清川安彦氏 新聞切り抜き』昭和8年昭和9年(1)、那覇市歴史博物館所蔵資料)によると、「洗骨は四月より十月まで之をなすことを得ず」とあります。

新聞記事
図1 1934年(昭和9)4月頃の記事(新聞名不明『清川安彦氏 新聞切り抜き』昭和8年昭和9年(1)、那覇市歴史博物館所蔵)

 ただしこれらの洗骨禁止期間が守られたとの話は、特に聞かれません 。さらには行政も取り締まりを徹底したわけではないようで、新聞記事ではこの禁止期間を破った人に関する記事は見当たりません。実際、『明治36年 沖縄縣警察統計表』によると、1903年(明治36)の中にて、この期間中に洗骨をして処罰を受けたのが 8名のみで、あくまで見せしめ的な取り締まりだったようです。

 その後、行政が火葬を推進するようになります。1937年(昭和12)の日中戦争以降、戦時体制がより具体的に強化されていくなか、1939年(昭和14)8月23日に県が開催した保険衛生調査会にて、「墓地及埋葬改善策」について専門家へ意見を求めており、専門家の委員からは、洗骨をなくす、火葬の奨励、各町村での火葬場設置の3つが提言されました(図2)。

新聞記事
図2『琉球新報』(1939年[昭和14]8月24日)国立国会図書館所蔵

 3年後の1942年(昭和17)には、沖縄県から各市町村や字に対して、火葬場設置等に関する意見を提出させることになり(1942年[昭和17]8月25日「墓地問題解決へ 改善意見求む」『大阪朝日新聞 沖縄版』)、この当時に政策として生活改善を推進させるために、火葬の推進に関する調査を進めていたことが確認できます。
 行政が火葬を推進する前に、沖縄は戦争で戦火に巻き込まれてしまいます。沖縄でこれまでの洗骨に替わって、火葬が沖縄島周辺離島や宮古、八重山まで広く普及するのは、戦後の1970年代後半以降と言われています。
 戦前の行政の公文書がほとんど残されていないなかで、新聞記事からは、当時の行政が洗骨の規制や火葬の推進をどのように進めてきたかをうかがうことができます。

井口 学(沖縄民俗学会)

〈参考文献〉

加藤正春2010『奄美沖縄の火葬と葬墓制-変容と持続-』榕樹書林