了解更多近代沖繩 沖縄における飲酒慣行の広がりと禁酒への動向
日本における飲酒の大衆化・日常化は、江戸時代の中期以降に始まります。酒屋の出現とともに、いつでも独りでも飲め、家庭の晩酌に代表される「独酌」の習慣が生まれました。独酌は明治から大正時代にかけて町方を中心に広まったとされます。
明治時代になると、西欧のビール醸造などが伝来し、日本の酒造技術の改良や酒質の向上を目的に国立の醸造試験所が創設され、酒造の近代化が政策的に取り組まれます。日清戦争(1894~95年)や日露戦争(1904~05年)により、兵士の出征や凱旋の際に祝宴を催す機会が増え、戦地においても戦勝した際は必ず兵士の飲酒が行われました。このように飲酒習慣を身につけた者が故郷に帰ったために、独酌や晩酌などの新しい慣習が地方の庶民にも広まりました。
沖縄における庶民の飲酒慣行の普及は、先行研究等がないため不確かですが、文献資料や民俗事例等から、地域差はあるものの、明治中期以降に徐々に広まったと考えられます。それ以前の状況は不明な点もありますが、身分的には上流階層の人たちをはじめ一般庶民でも特定の機会には飲酒していたことがうかがえます。
近代沖縄では個人の飲酒慣行が広がりをみせるとともに、県外からの寄留商人の進出もあり、泡盛以外の様々な酒類が市場にも出回るようになります(図1・2)。『琉球新報』(1901年〔明治34〕10月17日)によると、酒は案外普及していて、地方でもビールやブドウ酒、清酒などが流通し、地元の人々は好んで泡盛を飲むことが紹介されています。那覇における飲酒の様子も新聞記事から垣間見えます。『琉球新報』(1901年8月27日)には、徹夜の酒宴では歌うやら騒ぐやらで、酔払って喧嘩するなど近隣の人たちの安眠妨害に迷惑になるとあり、また同年8月29日の記事にも、芝居見物人は勝手に泡盛に酔払い高声にくだを巻き、場内はまるで蜂の巣に石を投げたようで役者のセリフはとても聞き取れないとあり、様々な場面で飲酒する様子がみてとれます。
このような中、飲酒を制限する事例もみられるようになります。金武間切ではよく酒が好まれ、朝から茶湯を飲まずに酒を飲む風習があり、協議の場でも朝から晩まで酒を飲んで遂に口論を惹き起こしたり、女の戸主なども泥酔して路傍に倒れ家族の厄介となるもの多いとあり、飲酒の無秩序な状態が蔓延していました(『琉球新報』1899年〔明治32〕11月21日)。そのようなことから、金武間切では泡盛禁止会を設立して会員間規約を設け、なんと泡盛の飲用及び輸入販売を禁止することを打ち出したのです(『琉球新報』1904年〔明治37〕3月26日、図3)。こうした動きは他地域でもあり、男女区別なく酒を飲む習慣があった与那城村平安座でも禁酒会が設立されました(『琉球新報』1917年〔大正6〕年2月11日)。
一方、新聞広告の中には個人による「禁酒」広告も掲載されています。「自今禁酒 上の蔵 ○○○○(氏名)」(『琉球新報』1900年〔明治33〕11月5日)として禁酒の理由を示さないものや、病気のため全快に到るまで禁酒する(『琉球新報』同年10月25日、図4)とするもの、酒はよくない事を知りながらも今日まで妥協してきたが、生命を亡ぼそうとする事を痛感したと理由を述べる告知(『沖縄タイムス』1923年〔大正12〕1月9日)もみえます。
その後の金武間切の「泡盛禁止会」の成果はどうだったのでしょうか。『沖縄毎日新聞』(1914年〔大正3〕10月6日)には節酒会設立の効果は着々と表れ、村民の飲酒は設置以前にくらべ遙かに減退していると報道されていて、一定の成果は収めたようです。
近代の沖縄では泡盛をはじめとする様々な酒の流通と普及にともなって、飲酒が日常化し種々の弊害が起こっていたことを、新聞記事を通して読み取ることができます。
(萩尾俊章)