了解更多近代沖繩 マングースの移入と新聞
マングース(フイリマングース:図1)は、1910年(明治43)、ネズミやハブの天敵として、動物学者・渡瀬庄三郎博士によって沖縄島に持ち込まれました。当時は、役人や住民の間でも、大きな期待とともに迎え入れられましたが、導入後の効果はあまり得られませんでした。一方でマングースは、ハブ以外の沖縄在来の動物を捕食し、やんばる(沖縄島北部)の貴重な動物にまで影響を及ぼすようになりました。2005年には、特定外来生物に指定されています(当初、ジャワマングースとして指定されましたが、その後、別種のフイリマングースであることが判明し、2013年に追加指定されました)。
沖縄島に持ち込まれた経緯について、地元の新聞が詳細に報じています。当時の新聞には、渡瀬庄三郎が予備調査にやってきた頃のこと、マングースを29頭携えてやってきたことなど沖縄滞在中の様子が細かく記されています。ちょうど導入前の1909年(明治42)から1910年の琉球新報(以後『琉新』)と沖縄毎日新聞(以後『沖毎』)は国立国会図書館に残されていて、そこから細かい情報を得ることができます。
マングース関連の当時の記事について、その一端を示します(一部紙名を略)。マングース移入前の渡瀬の動向を示す記事として1909年4月8日「渡瀬博士来県について」、9日「渡瀬博士の講話」、10日「渡瀬博士の講話(続)」、「尚家訪問」、13日「渡瀬理学博士の離島行」があり、沖縄教育会での講話のほか、移入前の予備調査などを行ったことがわかります。1910年1月19日「渡瀬博士と沖縄」では、渡瀬がインドへ渡航したことが報じられ、3月24日「マングースの消息」、30日「大工廻技師マングース」。4月5日「渡瀬博士及びマングース」、8日「マングースの消息」、13日「 渡瀬博士来県 」ではマングースを携え、日本にもどり、いよいよ沖縄へ赴いたことが報道されています。到着後は、14日「マングースの試験/渡瀬博士来県(図2)」(琉新)、「マングース着/渡瀬博士マングース/両博士の歓迎会/玉利渡瀬氏の講話/大工廻技師帰庁」(沖毎)などにみるように、マングースがネズミやハブを捕殺するか試験(図3)を行ったことや、風月楼において渡瀬の慰労会が催されたことなどを知ることができます。その後の21日まで、マングース関連の記事が毎日のように出ます。
次に注目されるのは持ち込んだ29頭をどうしたかということです。1910年4月21日『沖毎』(図4)には、4頭国頭農学校、4頭西原糖務局、4頭渡名喜島、4頭安里農場、5頭農事試験場本場、4頭渡瀬博士持参となっていますが合計があいません。22日『琉新』(図5)には4頭安里、4頭首里城内(図6)、4頭糖務局、4頭渡名喜島、4頭国頭農学校、5頭久茂地試験場内、4頭渡瀬携帯となっており、29頭の行き先がわかります。場合によっては記事の検証も必要だということを教えてくれます。
さて、なぜ渡瀬は沖縄にマングースを持ち込んだのでしょうか。『琉新』1910年4月23日「マングース移入の動機」(図7)という記事に、「野鼠とハブとを駆除せんとする」という記述があります(導入の意図については梁井〔2002〕参照)。岸田(1927)の研究報告書には、1927年(昭和2)1月24日付『沖縄日乃出新聞』からの引用として、前年の1907年(明治40)に米国での動物学会に参加して帰りにセイロンに立ち寄りマングースがコブラを捕らえる実況を見たことが移入の契機になった、と記されています。研究報告においても新聞が重要な役割をはたしたことが明瞭ですが、その紙面は今では現存していません。
今回のデジタル画像ではマングース移入の経過記事を見ることが出来ます。当山・小倉(1998)を参照しながら見るとより理解が深まるかと思われます。
【参考文献】
岸田久吉(1927)マングースの食性調査成績.農林省鳥獣調査報告 (4): 77-120.
梁井貴史(2002)渡瀬庄三郎によるマングース放獣の謎.川口短大紀要 (16): 53-72.
当山昌直・小倉剛(1998)マングース移入に関する沖縄の新聞記事.沖縄県史研究紀要 (4):171-170.