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資料詳細
- 資料ID.
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- 資料種別
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- 資料名
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- 歴代宝案巻号
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- 著者等
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- タイトル
- 中国暦
- {{ryu_data.f17}}年 {{ryu_data.f18}}月 {{ryu_data.f19}}日
- 西暦
- {{ryu_data.f13}}年 {{ryu_data.f14}}月 {{ryu_data.f15}}日
- 曜日
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- 差出
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- 宛先
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- 文書形式
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- 書誌情報
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- 関連サイト情報
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- 訂正履歴
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- 備考
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テキスト
崇禎二年“皇帝敕諭”についての一考察
徐恭生
(翻訳陳寶來)
昨年の十月四日、私達の研究室では、旅順博物館の韓行方副館長から郵送された一枚の明崇禎二年(西暦一六二九年)八月十六日付の“皇帝敕諭”の写真を受け取った。鑑定してみると、これは中琉関係档案資料のなかでもっとも得がたい珍品であるとわかった。以下に全文を書き写してみる。
皇帝敕諭琉球國王世子尚豐得奏尓父王尚寧於泰昌元年九月十九日薨逝尓爲世子理宜承襲特遣戸科右給事中杜三策行人司司正楊掄封尓爲琉球國中山王嗣理國政併賜尓及妃冠服綵幣等物念尓父紹膺國統作鎮海邦率職輸誠慎終如始中遭隣侮旋致堵安克綏提封迄於没世尓以元胤國人歸心嗣服之初倍宜兢惕其尚祗循侯度格守王章褆身以率勵臣民飭政而輯寧邦域綢繆牗戸保固藩籬庶無添尓前人用副予之顯命欽哉故諭
頒賜
國王
紗帽一頂〈展角全〉
金廂犀束帶一條
常服羅一套
大紅織金胸背麒麟圓領一件
青褡複一件 緑貼裏一件
皮弁冠一副
七旒阜皺紗皮弁冠一頂〈旒珠金事件全〉
玉圭一枝〈袋全〉
五章絹地紗皮弁服一套
大紅素皮弁服一件 素白中單一件
纁色素前後裳一件 纁色素蔽膝一件〈玉釣全〉
纁色粧花錦綬一件〈金釣玉汀澢全〉
紅白素大帶一條
大紅素紵絲舃一雙〈襪全〉
丹礬紅平羅銷金夾包袱四條
紵絲二疋
黒緑暗花八寶骨朶雲一疋
深青素一疋
羅二疋
黒緑暗花八寶骨朶雲一疋
素青一疋
白氁絲布十疋
妃
紵絲二疋
黒緑暗細花一疋 深青素一疋
羅二疋
黒緑暗細花一疋 素青一疋
白氁絲布十疋
(廣運之寶)
崇禎二年八月十六日
一、敕諭上の印鑑について
敕諭には「廣運之寶」の捺印がある。これは、明朝皇帝が群臣百官を奨諭する時に使用する御寶である。『續文献通考』巻九十五の記載文によると、「皇帝寶璽、明代初期には十七個ある。大きいものは、皇帝奉文之寶、皇帝之寶、皇帝行寶、皇帝信寶、天子之寶、天子行寶、天子信寶、制誥之寶、敕命之寶、広運之寶、皇帝尊親之寶、皇帝親々之寶、敬天勤民之寶、御前之寶、表章經史之寶、欽文之璽と称す」。以上の御寶について、『歴代寶案』第一集で見られる「皇帝之寶」は十一件で、「敕命之寶」は一件あり、「廣運之寶」は八件あり、「皇帝尊親之寶」が二件ある。それから、「敕詔之寶」を捺印した御寶があり、これは『續文献通考』で記されてないもので、丁度同書の欠けている部分を補充することができる。なぜならば、同書では明代初期皇帝の寶璽は、「凡十七」と記しているが、列挙されたのが十六個しかないことから、もしこの「敕詔之寶」を加えたら完全であると言える。
『歴代宝案』(台湾大学本)第1集巻2
二、『歴代寶案』との比較
『歴代寶案』第一集巻二で、同「敕諭」の本文部分を書き写している。中国の皇帝が琉球国王と妃へ下賜する品は「有條式」(箇条書きにして列挙する方式)を用いて記しているが、「有條式」三文字は省略してある。しかし、同「敕諭」は、『歴代寶案』の不足部分を補充することができる。その他、『歴代寶案』は書き写しする際に少なくない錯誤や脱漏がある。以下に正誤表を挙げる。
行数 字数 歴代寶案 原件
二 二 尚寧示泰昌元年 尚寧於泰昌元年
三 十四 社三策 杜三策
六 十六 慎絡如始 慎終如始
七 九 旋致者安 旋致堵安
七 十二 克緩提封 克綏提封
七 十五 远於没世 迄於没世
九 十四 褆躬以率 褆身以率
十 十 輯寧邦城 輯寧邦域
十一 十六 欽? 欽哉
以上のような錯誤や脱漏があることは、文章を書き写しする際に免かれがたいことであるが、ただこの点からして見ても『歴代寶案』の整理作業は非常に困難であることがわかる。だから、願わくは『歴代寶案』の整理作業は、清政府に関する档案の整理・出版作業と同時に進行することが望まれる。このように進行すれば『歴代寶案」の再版の品質の保証ができると思うからである。
三、なぜこの「敕諭」が中国に逆戻りしたのか
この「敕諭」は、もともと琉球の国宝であり、中山王府に保存するのがあたりまえだと思っていたが、なぜ中国に逆戻りしたのか。私は、一九九〇年に『地域と文化』の第五十八・五十九号の合併号で「琉球国王印信問題研究」という一文を発表した。文中ですでにこの問題点について触れておいたが、具体的な資料が欠乏しているため展開していない。同文のなかで「一六四四年、満州族の貴族集団が関内へ入り、大清封建帝国政権を建立した。その対外政策は明の制度を継承しており、周辺の隣国は以前明が与えた敕印を返上して、臣として服従し、貢納すれば、直ちに大清王朝と宗藩関係を立てることができた」と記してある。今、『清史稿』五百二十六巻「琉球傳」を調べて見ると、「琉球は、福建泉州府東海中にあり、初めは明朝末期に琉球国王・尚賢が金応元を派遣して、請封を願うが、路上で阻止され、閩に留まる。清順治三年、福建を平定、使者と通事・謝必振らは江寧に至って、洪承疇経略使を願って、北京へ護送してもらう。しかし、礼官は前朝の敕印をまだ納めてない理由から受封を断る。四年、使者に衣服、帽子、布帛を下賜して帰す。この年、尚賢王死去。弟・尚質は世子と自称し、使者を派遣して、表を奉って、帰順する。十年、使者を派遣して、朝貢へ赴く。翌年、再び貢使を派遣して、前朝に受け賜った敕印を納め、受封を請う、允可する」と詳細に記されてある。
順治十一年(一六五四年)王舅・馬宗毅は旧敕を清朝に納めた。これが、即ち今日の旅順博物館で発見された崇禎二年の“皇帝敕諭”である。明朝が杜三策と楊掄を派遣して、琉球へ赴き、尚豊を中山王として冊封したことは、冊封使節が琉球へ赴き、冊封祝賀の儀式へ参加した明代での最終回となる。また、同敕諭がなぜ北京の故宮から東北の旅順博物館に流出したのか? この点については、すでに『地域と文化』で触れておいた通り、羅振玉先生が天津で保存している部分の明清档案をその後旅順へ運んで整理したからである。
徐恭生
(翻訳陳寶來)
昨年の十月四日、私達の研究室では、旅順博物館の韓行方副館長から郵送された一枚の明崇禎二年(西暦一六二九年)八月十六日付の“皇帝敕諭”の写真を受け取った。鑑定してみると、これは中琉関係档案資料のなかでもっとも得がたい珍品であるとわかった。以下に全文を書き写してみる。
皇帝敕諭琉球國王世子尚豐得奏尓父王尚寧於泰昌元年九月十九日薨逝尓爲世子理宜承襲特遣戸科右給事中杜三策行人司司正楊掄封尓爲琉球國中山王嗣理國政併賜尓及妃冠服綵幣等物念尓父紹膺國統作鎮海邦率職輸誠慎終如始中遭隣侮旋致堵安克綏提封迄於没世尓以元胤國人歸心嗣服之初倍宜兢惕其尚祗循侯度格守王章褆身以率勵臣民飭政而輯寧邦域綢繆牗戸保固藩籬庶無添尓前人用副予之顯命欽哉故諭
頒賜
國王
紗帽一頂〈展角全〉
金廂犀束帶一條
常服羅一套
大紅織金胸背麒麟圓領一件
青褡複一件 緑貼裏一件
皮弁冠一副
七旒阜皺紗皮弁冠一頂〈旒珠金事件全〉
玉圭一枝〈袋全〉
五章絹地紗皮弁服一套
大紅素皮弁服一件 素白中單一件
纁色素前後裳一件 纁色素蔽膝一件〈玉釣全〉
纁色粧花錦綬一件〈金釣玉汀澢全〉
紅白素大帶一條
大紅素紵絲舃一雙〈襪全〉
丹礬紅平羅銷金夾包袱四條
紵絲二疋
黒緑暗花八寶骨朶雲一疋
深青素一疋
羅二疋
黒緑暗花八寶骨朶雲一疋
素青一疋
白氁絲布十疋
妃
紵絲二疋
黒緑暗細花一疋 深青素一疋
羅二疋
黒緑暗細花一疋 素青一疋
白氁絲布十疋
(廣運之寶)
崇禎二年八月十六日
一、敕諭上の印鑑について
敕諭には「廣運之寶」の捺印がある。これは、明朝皇帝が群臣百官を奨諭する時に使用する御寶である。『續文献通考』巻九十五の記載文によると、「皇帝寶璽、明代初期には十七個ある。大きいものは、皇帝奉文之寶、皇帝之寶、皇帝行寶、皇帝信寶、天子之寶、天子行寶、天子信寶、制誥之寶、敕命之寶、広運之寶、皇帝尊親之寶、皇帝親々之寶、敬天勤民之寶、御前之寶、表章經史之寶、欽文之璽と称す」。以上の御寶について、『歴代寶案』第一集で見られる「皇帝之寶」は十一件で、「敕命之寶」は一件あり、「廣運之寶」は八件あり、「皇帝尊親之寶」が二件ある。それから、「敕詔之寶」を捺印した御寶があり、これは『續文献通考』で記されてないもので、丁度同書の欠けている部分を補充することができる。なぜならば、同書では明代初期皇帝の寶璽は、「凡十七」と記しているが、列挙されたのが十六個しかないことから、もしこの「敕詔之寶」を加えたら完全であると言える。
『歴代宝案』(台湾大学本)第1集巻2
二、『歴代寶案』との比較
『歴代寶案』第一集巻二で、同「敕諭」の本文部分を書き写している。中国の皇帝が琉球国王と妃へ下賜する品は「有條式」(箇条書きにして列挙する方式)を用いて記しているが、「有條式」三文字は省略してある。しかし、同「敕諭」は、『歴代寶案』の不足部分を補充することができる。その他、『歴代寶案』は書き写しする際に少なくない錯誤や脱漏がある。以下に正誤表を挙げる。
行数 字数 歴代寶案 原件
二 二 尚寧示泰昌元年 尚寧於泰昌元年
三 十四 社三策 杜三策
六 十六 慎絡如始 慎終如始
七 九 旋致者安 旋致堵安
七 十二 克緩提封 克綏提封
七 十五 远於没世 迄於没世
九 十四 褆躬以率 褆身以率
十 十 輯寧邦城 輯寧邦域
十一 十六 欽? 欽哉
以上のような錯誤や脱漏があることは、文章を書き写しする際に免かれがたいことであるが、ただこの点からして見ても『歴代寶案』の整理作業は非常に困難であることがわかる。だから、願わくは『歴代寶案』の整理作業は、清政府に関する档案の整理・出版作業と同時に進行することが望まれる。このように進行すれば『歴代寶案」の再版の品質の保証ができると思うからである。
三、なぜこの「敕諭」が中国に逆戻りしたのか
この「敕諭」は、もともと琉球の国宝であり、中山王府に保存するのがあたりまえだと思っていたが、なぜ中国に逆戻りしたのか。私は、一九九〇年に『地域と文化』の第五十八・五十九号の合併号で「琉球国王印信問題研究」という一文を発表した。文中ですでにこの問題点について触れておいたが、具体的な資料が欠乏しているため展開していない。同文のなかで「一六四四年、満州族の貴族集団が関内へ入り、大清封建帝国政権を建立した。その対外政策は明の制度を継承しており、周辺の隣国は以前明が与えた敕印を返上して、臣として服従し、貢納すれば、直ちに大清王朝と宗藩関係を立てることができた」と記してある。今、『清史稿』五百二十六巻「琉球傳」を調べて見ると、「琉球は、福建泉州府東海中にあり、初めは明朝末期に琉球国王・尚賢が金応元を派遣して、請封を願うが、路上で阻止され、閩に留まる。清順治三年、福建を平定、使者と通事・謝必振らは江寧に至って、洪承疇経略使を願って、北京へ護送してもらう。しかし、礼官は前朝の敕印をまだ納めてない理由から受封を断る。四年、使者に衣服、帽子、布帛を下賜して帰す。この年、尚賢王死去。弟・尚質は世子と自称し、使者を派遣して、表を奉って、帰順する。十年、使者を派遣して、朝貢へ赴く。翌年、再び貢使を派遣して、前朝に受け賜った敕印を納め、受封を請う、允可する」と詳細に記されてある。
順治十一年(一六五四年)王舅・馬宗毅は旧敕を清朝に納めた。これが、即ち今日の旅順博物館で発見された崇禎二年の“皇帝敕諭”である。明朝が杜三策と楊掄を派遣して、琉球へ赴き、尚豊を中山王として冊封したことは、冊封使節が琉球へ赴き、冊封祝賀の儀式へ参加した明代での最終回となる。また、同敕諭がなぜ北京の故宮から東北の旅順博物館に流出したのか? この点については、すでに『地域と文化』で触れておいた通り、羅振玉先生が天津で保存している部分の明清档案をその後旅順へ運んで整理したからである。