もっと知りたい交流史 琉球の外交方針の決定プロセスと『歴代宝案』
②太平軍への対応
太平軍の勢力拡大と王府審議

伴送官の拡充に対する謝意の事例が参考とされたのは、1850年代の太平天国をめぐる動向のなかに確認できます。
1850年代に本格化する洪秀全による反清運動は、53年に南京を占領するなど清朝を脅かしました。琉球は太平軍の影響を直接的に受け、1852年の進貢使の北京到着が遅れたばかりか、福州への帰途も一年以上遅れ、60年代には琉球の進貢使節が北京まで行くことができない事態も起きています。琉球と清朝との関係を維持するうえで重要な進貢の実施が困難となっていくのです。
太平軍の活動に危機感を覚えたのか、首里王府は対応策を検討します。1850年代の王府の審議を記録している史料(尚家文書「僉議」442号、443号、那覇市歴史博物館所蔵)のなかに、太平軍の勢力拡大に対する清朝皇帝への「ご機嫌伺い」(安否伺い)をおこなうかどうか、おこなうとしたらどのような方法でおこなうべきかという審議記録が掲載されています。
首里王府の政治決定のプロセスは、多くが摂政・三司官という王府高官から提案された内容を国王が承認する形ですすめられます。また、摂政・三司官は、表十五人衆とよばれる各行政機関の長官らの合議結果などをもとに国王に提案する内容を集約し、さらに表十五人衆は必要に応じて関係機関や専門家からの意見も勘案して検討していました。
清朝皇帝への「ご機嫌伺い」については、はじめに久米村方が意見を出しましたが、久米村方から得られた見解からは方針を決めることができませんでした。そのため、再度表十五人衆が審議し(再評)、表十五人衆の審議結果を摂政・三司官が検討したうえで、最終的に摂政・三司官から国王に方針が提案されました。
審議内容

さて、この審議ではむずかしい判断が求められました。久米村方から統一した見解がだされなかったからです。久米村方からは、
①ご機嫌伺いの使者を派遣すべきである。
②国王から清朝の役所宛てに書状(咨文)を出すべきである。
③ご機嫌伺いをすべきではない。
という3つの方針が提出されています。バラバラの意見が出されていますが、それぞれの意見には理由がありました。
①使者派遣を提案したグループは、「他国に比べ貢物などが少ない『小国』の琉球が(清朝に存在感を示すのは)忠誠の一筋で進貢する」しかなく、もしほかの国が使者を送っているのに琉球が送らなかったならば「守礼之邦の名折れ」になると述べています。忠誠心を表明することが琉球にとって重要であるという理由が、使者を派遣すべきという意見の背景にありました。
一方の②書状を送付すべきとするグループの意見の理由は、他国が伺いを立てるかもしれず、清朝の危機的状況に琉球が手をこまねいていては、清朝から琉球の忠誠心に疑念の目を向けられるということです。さらに深刻なのは、ご機嫌伺いを立てずにいると、琉球が太平軍に帰服したのではないかと清朝側に疑われる恐れがあることでした。ただし、使者を派遣するのも問題であると考えます。たまたま次の福州行きの船は北京まで赴く使者の乗らない接貢船だったため、①の案だと特使を派遣する必要がありました。特使を派遣して、万が一、中国で「世替わり」(政権交代)が起こっていたならば、新政権側(太平軍)から特使派遣の理由を追求されるかもしれないとも述べています。つまり、清朝が打倒される可能性を踏まえつつ、清朝・新政権いずれに対しても琉球の忠誠心が表明できて、今後の「中国」との関係を維持するために必要な方法が書状送付と判断したのでした。そのうえで、清朝皇帝宛てにご機嫌伺いの書状を出すけれども、中国で「世替わり」が起こっていたならば、書状は焼き捨ててしまえば問題ないという意見も出していますが、これは17世紀中頃の「明清交替」の経験をもとにした提案でした。なお、このグループが1812年の伴送官拡充に対する謝恩の上奏文の転奏依頼が清朝から評価されたので、今回も書状を送るべきとしています。
最後に③ご機嫌伺い自体をしなくてもよいと考えるグループの理由です。このグループは、やはり特使を派遣して福州に到着した際に、中国で新政権が樹立していたならば新政権との関係が危ぶまれると述べています。さらに、『会典』という清朝の法典によると、他国がご機嫌伺いをしたとの事例はなく、琉球もこれまでご機嫌伺いをしたことはなかったため、なにもしなくても問題にはならないと指摘しています。つづけて「御当地」(琉球)は、何事に関しても不自由な「小国」で往古より中国相手の礼儀は他の国と同じようにはできず、不足する点もあったので、ご機嫌伺いをしなくても清朝との外交問題となることはないだろうとも述べています。
「小国」の使い分け
話はいったん横道にそれますが、ここで3つの意見のなかで①と③の根拠に「小国=琉球」という考え方が登場する点に注目したいと思います。いずれも物産が乏しく生産力の小さいというニュアンスで「小国」という語が使われていますが、「小国」の使われ方が異なっています。
①では「小国」だからこそ忠誠心を示す必要があるという意見でしたが、③では「小国」だから危険をおかしてまで誠意を示さなくてもよいという意見です。この論理は、琉球国内だけで通用するものではなく、おそらく清朝にも説得力のある建前だったと思われます。「小国=琉球」という考え方は、使者派遣、書状送付どちらにも使用できる論理であったと言えるでしょう。琉球は自覚的に自身を「小国」と捉え、「小国」という立ち位置を積極的に活用しながら、清朝(中国)との関係を展開していたとも考えられると思います。
表十五人衆の意見と最終判断

(2-194-09、國立臺灣大學圖書館所蔵)
話を元に戻しましょう。久米村方から出された3つ意見をもとに表十五人衆であらためて審議した結果、②の書状提出案が採用されました。彼らは、「中国」との外交は、琉球にとって非常に重要であるため、永久に過不足なく適度な距離を維持し、「中制」(中庸を得た制度、ここでは調和のとれた外交関係)を守るために万全の対策を取るべきであると述べます。そのうえで、「世替わり」の可能性から使者を派遣することは妥当ではなく、むしろ1812年の代奏の事例を踏まえると、非礼にはあたらないと判断できるため、書状を送り代奏を皇帝に提出するべきだと提案しました。
この提案を了承した摂政・三司官は、久米村方の意見も添えて国王に報告します。国王からは特段、意見も出されず摂政・三司官の提案が採用となり、清朝向けの書状が作成されました。それが『歴代宝案』(2-194-09)です。この文章は、太平軍の活動拡大に懸念を示しつつ、なにもできない琉球を恥じ、そのうえで皇帝の安泰を祈るという内容で、福建布政使司を通して、総督と巡撫から上奏してもらいたいと述べられています。王府内での審議通り、1812年と同じように代奏にて皇帝のご機嫌をうかがいたいという書状です。
ところが、この記事の最後に注記があり、そこには「中国で(識者から)提出すべきかどうかの意見を聞いたうえで提出するようにと指示があり、その通りに事前調整をしたところ、(代奏では)いろいろと支障があるので提出は見送った」(意訳)と、当時の首里王府の公用文で使われる候文で書かれています。つまり、王府は一度、書状でのご機嫌伺いを決定し書状を作りますが、念のため王府の決定が間違っていないか清朝側に確認して、最終判断をするという方針となっていたのです。実際に、今回の事例では清朝到着後に琉球の使者が清朝側と協議して提出を取りやめています。
このように、国内での決定後に外交方針に修正が加えられる事態も起こっていたのです。琉球から中国に派遣される使者の役割の重要性が分かるでしょう。あるいは、福建省の役人との連携がなければ、清朝との外交をスムーズに進められなかったとも考えられます。
さまざまな局面を予測した王府役人の想像力、清朝に派遣される使者の柔軟な対応力と調整する能力、清朝側との結びつきが、首里王府の外交の支えとなり、これらの力が琉球独自の外交の基礎となっていたのです。(麻生伸一)

【参考文献】
- 西里喜行「清国の「内憂外患」と中琉関係の諸問題」『沖縄県史 各論編 第4巻(近世)』沖縄県教育委員会、2005年。
- 渡辺美季『近世琉球と中日関係』吉川弘文館、2012年。
- 豊見山和行「近世琉球の政治構造について-言上写・僉議・規模帳等を中心に-」『周縁の文化交渉シリーズ6 周縁と中心の概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」-歴史学・考古学研究からの視座-』関西大学文化交渉学教育研究拠点、2012年。
- 麻生伸一「先王祭祀と琉球王権-琉球王国末期の廟制から-」『沖縄文化』第52巻1号、沖縄文化協会、2019年。